国鉄 篠ノ井駅 昭和58年(1983年)2月現在
(1) 子供の頃の思い出 〜信越本線 篠ノ井〜川中島間 築地踏切付近にて〜
母の実家が長野県の篠ノ井にあり、私が小学生の頃は、毎夏、母とともに長野へ行ったものです。母の実家は、信越線の踏切からほど近いところにあり、私は信越線の列車を眺めるため、その踏切へよくいったものでした。
残念ながら、その時の写真で、ここでみなさまにお見せできるようなものはほとんど残っていないのですが、実家のアルバムを整理していたところ、何枚か写真がみつかりましたので、ここに公開したいと思います。ただ、コンパクトカメラで撮った、まさにド素人の写真であることは、あらかじめご勘弁いただきたいと思います。
まずは、1970年代。私が小学校低学年の頃だと思います。撮影したのは私の父です。上で「毎夏」と書いておいて、いきなり冬の写真なのですが、冬休みに長野を訪れたのは、これが最初で最後だったと思います。この時は、父が一緒で、このあと、志賀高原かどこかのスキー場へ連れて行ってもらった記憶があります。
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上に「踏切」と書きましたが、その踏切とは、信越本線・篠ノ井〜川中島間にあった築地(ついじ)踏切です。篠ノ井駅から伸びる貨物専用線の踏切にもなっており、貨車の入れ換えが始まると、かなり長時間しまる踏切でした。
写真の列車は、詳細には記録していないのですが、下り急行「信州」か「妙高」ですね。写真手前が篠ノ井駅方で、写真奥が川中島方です。いわゆる「はえたたき」も写ってますね。蛇足ですが、専用線の一番手前のポイントの転てつ転換装置(?)に立ち塞がるようにして写っている子供が私です(笑)。
昭和58年2月のものですが、次の図が、専用線と踏切のおおよその位置関係がわかる図です。
トワイライトゾーン・マニュアル6 (ネコパブリッシング)に収められている「昭和58年版全国専用線一覧表」(五十嵐久仁氏所蔵)を参考にすると、各線の使用状況は、
専用1,2番線 エッソ石油(株) (明星セメント線から分岐)
専用3〜5番線 明星セメント(株)、共用(?)
専用8番線 明星セメント(株)
専用6,7番線 長野県くみあい飼料(株) 篠ノ井工場 (明星セメント線から分岐)
と推測できると思います。
さて、次からの写真は、1982年8月28日に、高校生の私が、ほぼ同地点で撮った写真です。
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私の記録によると、「しなの1号」です。
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私の記録によると、「あさま1号」です。もう一枚、現地を同時間帯に通過する「白山2号」を撮影したはずなのですが・・・プリントがみあたりませんでした。
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そして次からの写真は、新幹線の開業を約5か月後に控えた1997年5月24日の撮影です。この日より少し前に、たまたま叔父と話す機会がありまして、あの踏切が廃止されるとの情報を聞き、廃止される前に今一度あの「遊び場」を訪れようと思い、現地に赴いたときに撮影した写真です。
築地踏切より川中島方面。
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私のコンパクトカメラにもやっとズーム機能がつきました(笑)。「長野米 コシヒカリ」の看板は健在ですね。
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踏切を眺めます。写真向って左が川中島方、右が篠ノ井方で、線路は、手前から、専用線、信越線下り本線、信越線上り本線です。
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次に踏切より篠ノ井方を眺めます。新幹線の向こう側に見える建物は県立・篠ノ井高校だと思います。
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同じ地点よりズームしました。
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踏切を渡り、今一度、川中島方を眺めます。向こうに「くみあい飼料」専用線の移動機もいました。
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(2) 篠ノ井駅配線略図 昭和58年(1983年)2月現在
篠ノ井機関区で作成された線路図のようです。原図は、昔懐かしいB4版「わら半紙」にガリ版刷りでした。機関士の方々の訓練研修用でしょうか。
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