西武鉄道 小川駅 昭和30年代推定

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(1) 昭和30年代(推定)

 ネットオークションで一冊入手できた西武鉄道の「信号線路」の教科書からの抜粋です。巻末に、国鉄の信号関係の教科書でよくみかける連動図表の例題の他、当時の西武鉄道のいくつかの停車場の連動図表がついておりました。所沢、飯能、吾野、下原貨物駅といったところもみたかったのですが、残念ながらはいっていませんでした。

 この教科書には、発行年月が入っていないのですが、教科書本文・第5章「閉そく装置」の第3節「タブレット閉そく式」の解説の中で、

「タブレット閉そく式は単線区間(豊島線を除く)に使用されている閉そく方式であって、・・・以下省略」

とありますので、「写真で見る西武鉄道100年(2013年7月19日 ネコパブリッシング発行)」の巻末年表などと照らし合わせてみますと、昭和30年代に使われていた教科書ではないかと思われます。同年表には、昭和38年4月5日「萩山〜多摩湖間 単線自動閉塞式に。」とありますので、少なくとも昭和38年4月よりも前の教科書だったことが推定されます。

 そして、今回の小川駅ですが、まずは、連動図表の配線略図からです。萩山〜小川間の開業前のようですので、その開業日である昭和37年9月1日(ウィキペディア)よりも前の図面であることが推定されます。

 些細なことなのですが、私個人として気になったのは、停車場構内の線路呼称が、線路名称ではなく、線路番号になっていることでしょうか。実は、豊岡町駅の連動図表でもわかるように、池袋線系統の停車場では、池袋などの終端停車場は別として、本線、中線などの線路名称が主に使われている一方、新宿線系統の停車場では線路番号が使われているのですね。

 上記の「写真で見る西武鉄道100年(2013年7月19日 ネコパブリッシング発行)」をみますと、武蔵野鉄道と西武鉄道(旧)が合併し、西武農業鉄道となったのが昭和20年9月22日、その後、昭和21年11月15日に西武農業鉄道が西武鉄道に社名変更し、現在に至るわけですが、合併後、約17年の時期では、まだ武蔵野鉄道系の線区と旧西武鉄道系の線区とでは、運転取扱に差異があったのかもしれませんね。

 3番線、4番線から図面左上に伸びる線路が将来の西武拝島線・萩山方の線路ですが、この図面が作成された当時は、まだ、ブリジストン東京工場への専用線だったのでしょう。この専用線は、戦前、陸軍兵器補給廠小平分廠への軍事専用線だったようです。 

 さて、次に、連動表の方ですが、こちらも豊岡町と同じく連動表の鎖錠欄が「片鎖錠」のオンパレードですね・・・(汗)。連動装置の種類は、豊岡町と同じで「第二種電気丙」でしょうか。

 私でもわかる間違いがいくつかありますので、まずは、それを列記しておきますと、

1、「場内信号機 国分寺方―1」の行の番号欄は、11Rではなく、「丸に11L」が正当ではないかと思われます。

国立国会図書館デジタルコレクションにある

「運転より見たる保安装置 運転教育研究会 著 交友社発行 昭和13年」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1055571

のコマ番号71〜72(124〜126ページ)にある古い時代の連動表に記載する事項の解説をみますと、上記11Lが丸囲みではないとすると、「電気てこ」ではなく、「機械てこ」であることになるわけで、これは考えにくいと思います。

2、「出発信号機 1―東村山方」の鎖錠欄 「丸囲みの21」は、単なる「21」か、または、「縦カッコの21」が正当ではないかと思われます。

 鎖錠欄の片鎖錠オンパレードですが、これだけあると、片鎖錠でない場合との比較で何かわかるのでは?と思ったのですが・・・、やはりよくわかりませんでした。

 詳しい方に解析と解説をお願いしたいと思います。

 

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