国鉄 丸子信号場

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(1) 昭和26年(1951年)6月現在 

  「線路図 山手電車線 昭和26年6月現在 東京鉄道管理局」には、凡例のところに、以下のような注意書きがあります。

「 註 1、本図は山手環状線の線路図であるが都合により東京ー上野ー田端、東京ー品川ー新宿ー田端の2区間に分けて配列した。」

 また、注意書きにはないのですが、折本式図面は東京〜品川で一度途切れ、品川の次は、下図に示すように、新鶴見操車場の下り場内信号機のところから始まります。残念ながら、新鶴見操車場は含まれていないのですが、丸子信号場が記載されていましたので、ご紹介したいと思います。

 丸子信号場は、「旧国鉄・JR鉄道線廃止停車場一覧 補訂第2版 高山拡志編著・発行 平成12年5月1日発行」によれば、開業が昭和25年5月20日、廃止が昭和32年7月17日、ただし、特記事項として専用線発着貨取扱開始は、昭和25年8月11日とあります。

 そして、この丸子信号場から分岐する側線については、ネコ・パブリッシング発行の「トライライトゾーン・マニュアル4」に掲載されている昭和28年現在の「専用線一覧表」によれば、

「駐留軍専用線 (接続駅または所管駅)丸子信号場 (専用線名)丸子軍用側線 作業キロ 1.7」

とあり、在日米軍の専用線であったことがわかります。

 ちなみに、同「トワイライトゾーン・マニュアル8」所収の昭和26年9月1日現在の「専用線一覧表」には、「駐留軍専用線」の項目はなく、この丸子軍用側線についての記載もありません。サンフランシスコ講和条約の発効は昭和27年4月28日ですから、占領下の日本において、「駐留軍専用線」について「専用線一覧表」に掲載することはできなかったのかもしれません。

 次に、この専用線の先に何があったかについては、

宮脇俊三 編著 「鉄道配線跡を歩くZ(7)」JTB 2000年1月1日発行の100〜101ページにある

「品鶴線下丸子三菱重工引込線 朝鮮戦争前夜に生まれ休戦と共に消えた土手の引込線 関田克孝」

に詳述されています。

 それによれば、この専用線の先には、米軍管理下におかれた三菱日本重工東京工場があり、列車で運び込まれる戦車の修理再生が行われていたとのことです。この工場、戦前は、戦車専門工場だったらしく、戦後、一時、農業用トラクターの生産工場になるも、GHQの命令により、戦車の修理再生工場として使われることとなり、品鶴線から分岐する専用側線も建設されたようです。

 GHQの当初の目的は、第二次世界大戦においてアジア各地に放置された使用不能戦車の修理再生だったようですが、昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発すると、そこで使われた戦車も、大量に運び込まれるようになったようです。しかし、昭和28年7月に朝鮮戦争が休戦した後は、「戦車列車の入線も激減」し、この専用線は、休眠状態となり、昭和30年6月には、米軍による工場管理も打ち切りになったとのことです。

 戦前の経緯を考えると、戦前につくられた軍専用線かとも考えてしまいますが、戦後に建設された専用線なんですね。

 線路配置は、下図の通りですが、下り本線のみに接続している点が興味深いですね。

 線路配置とは関係ありませんが、下図の専用線末端に書かれている「東京機器工場」ですが、現在、「東京機器株式会社」という名前の会社があり、

そのHP  http://www.tokyokiki.co.jp/company.html

をみますと、得意先に、東日本旅客鉄道株式会社、防衛省、三菱重工エンジンシステム株式会社等の名前もみれら、何かこの会社と関係があるのかとの印象を持ってしまいますが、上記の経緯を考えますと、それは単なる偶然のようです。

 もしかすると、米軍関係の工場であることを明らかにしないために、当時、国鉄内部で、「東京機器工場」なる名称が使われたのかもしれません。

 昭和28年現在の「専用線一覧表」をみますと、赤羽(赤羽台)の専用線も、駐留軍専用側線として使われていたことがわかるのですが、こちらは、線路図に専用線の線路配置の記載が省略されており、その違い、すなわち、専用線の線路配置を記載する場合と省略する場合で、なにか理由や、事情の違いがあるか否か、興味深いところです。 

拡大版 (ファイルサイズ 634KB) 

(2)丸子信号場・線路配置の変遷推測

 この丸子信号場の線路配置の時代による変化なのですが、昭和32年3月現在(廃止間近で休眠状態にあった時代)の貴重な線路図が、 f54560zgさんのブログ「懐かしい駅の風景〜線路配線図とともに」の新鶴見操車場配線図追加のページで紹介されています。

http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-9ab1.html

 一方、上記でご紹介した

宮脇俊三 編著 「鉄道配線跡を歩くZ(7)」JTB 2000年1月1日発行の100〜101ページにある

「品鶴線下丸子三菱重工引込線 朝鮮戦争前夜に生まれ休戦と共に消えた土手の引込線 関田克孝」

にもこの信号場の線路配置図が載っているのですが、悩ましいことに、その線路配置は、昭和26年、昭和32年の国鉄作成の図面のものとは、どちらとも違っているんです。

 ここから先は、国鉄・昭和26年版、国鉄・昭和32年版、そして、JTB書籍掲載版の線路配置図がすべて正しいと仮定した時の、私KASAの独断と偏見も基づく単なる推測となりまので、あらかじめご了承ください。

 まずは、JTB書籍掲載版なのですが、これを信号場開設当初の線路配置図と推定しました。

ア、開設当初

 下図は、上記JTB書籍101ページ掲載の図を参考に、私KASAが、昭和26年の国鉄図面を加工したものです。

 停車場途中の上下本線から専用線が分岐するための信号場・線路配置としては、一番、素直でしょうか。

 上記書籍には、その101ページに「チキに載った中型戦車や解体して無蓋車に分載したもの等が、C58やD51,8620に推進されながら昼夜運転された。沼部の分岐部は特設の信号場になっていたが、24時間過密ダイヤであった品鶴線で、短時間とはいえ上下線を閉じての入出線作業は至難の技であったと思う。」とあります。沼部とは近くを通る目蒲線の駅名にあります。

 ですので、当初は、上下本線間に渡り線を持つ分岐型の信号場だったのではと推測しました。信号は、JTB書籍掲載図は記載されていないので、推測を避けました。

 ところで、この戦車や戦車の解体物は、どこの港について列車に積み込まれ、そして、どのような経路でこの丸子信号場まで運ばれてきたのか、などなど興味はつきません。  

イ、最盛期

 次は、(1)でも紹介した昭和26年の図面です。渡り線はなくなり、下り本線のみからの分岐になりました。一方、新鶴見方に出発信号機が建植されています。

 朝鮮戦争の影響で、この専用線に運び込まれる戦車の量が予想以上となり、過密ダイヤの品鶴線において、下り本線を横断することに支障をきたすようになり、それを避けた線路配置に変更されたのではと推測しました。短期間のうちの配線変更も、占領軍関係側線だからこそできた荒業でしょうか・・・。繰り返しますが、これは単なる推測にすぎません。 

ウ、休止後

 そして、末期の線路配置です。専用線は休止状態。工場の米軍管理も解かれた時代です。本線と接続する線路が残っているということは、自社専用線として、再利用する計画でもあったのでしょうか。連動装置が第二種から第一種に変更され、さらに、信号扱い者の向きも変更されています。これもまた興味深いところです。

 下図は、f54560zgさんのブログ「懐かしい駅の風景〜線路配線図とともに」で紹介されている昭和32年3月現在の国鉄作成・丸子信号場の線路図を参考に、私KASAが、昭和26年の図面を加工したものです。

(3)オマケ

 さて、ここまで長々とお付き合いいただいたお礼に、一つ、駐留軍専用側線の分岐信号場だった山陽本線・川下信号場(昭和51年⒋月1日現在)をご紹介します。この信号場は、場所的に、分岐側線が在日米軍関係だと容易にわかるのですが、丸子信号場と同じく、戦後に開設され、すでに廃止、線路も撤去されています。川下信号場の開業は昭和31年2月15日で、廃止は昭和59年10月26日です(※)。ここも、戦前からある軍用側線ではなく、私にとってはやや驚きでした。

(※)「旧国鉄・JR鉄道線廃止停車場一覧 補訂第2版 高山拡志編著・発行 平成12年5月1日発行」74ページ

 本線接続の仕方が、昭和26年の丸子信号場と似ていますよね。やはり過密ダイヤであった山陽本線の本線横断を避けるための線路配置だったのでしょうか。

 (注)広島鉄道管理局の「自動信号機建植位置図」では、入換標識は描かれていません。赤線は電化されている線路、黒線は非電化線路です。

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