国鉄 馬橋駅

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(1) 国鉄 馬橋 昭和42年 (1967年) 3月現在 

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2)国鉄 馬橋 昭和47年 (1972年) 1月現在

 昭和46年(1971年)4月20日の国鉄・常磐線・綾瀬ー我孫子間複々線開業後、かつ、武蔵野線開業前の配線略図です。なお、緩行線にはATC進路が記載されています。

ATC進路 管内線路図(常磐線) 昭和47年1月 東京北鉄道管理局より)

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  綾瀬〜我孫子間の複々線化により、緩行線は、ATC設置区間となり、営団・千代田線より直通の各駅停車のみ停車する亀有、金町、北松戸、馬橋、新松戸(開業は昭和48年4月1日)、北小金、南柏、柏(快速電車の停車は昭和47年10月2日より)、北柏の各駅は、島式旅客ホーム1面2線の線路配置となりました。

 このうち、綾瀬方に貨物線との平面交差がある金町駅と、我孫子方に折り返しY線のある柏駅を除いては、いわゆる棒線駅なのですが、亀有、北松戸、新松戸、北小金、南柏、北柏の各駅と異なり、馬橋駅には、上図の通り、ATC場内進路、ATC出発進路の記載があります。しかも、例の「丸にイ、ロ、ハ、ニ」の記号も・・・。これについては、また後日、ページを改めて書きたいと思います。

 また、快速線については、複々線化後、停車場構内の本線、副本線等の線路の運転扱い上の呼称が、下り本線、中線などの線路名称から線路番号に変わりました。しかも、緩行線からの通番で線路番号が振られています。これは、快速線の金町〜取手間の他の停車場についても同様です。

 一方、同時期に複々線化がなされた総武本線の複々線区間では、市川、幕張など、快速下り本線、快速中線などの線路名称が複々線化後も用いられている停車場があるわけで、これはやはり、管轄する鉄道管理局の違いによるものなのでしょうか。興味深い点の一つです。

(3) 国鉄 馬橋駅 昭和48年 (1973年) 4月現在

 武蔵野線開業時の配線略図です。常磐線ではなく、武蔵野線の折本式配線略図からの抜粋です。常磐緩行線については、ATC進路の記載が省略されています。

 快速線については、信号扱い所が馬橋駅付近に一カ所あるだけですので、北小金付近の分岐は、馬橋駅の扱いだったと思われます。また、武蔵野線・新松戸駅の信号は、その信号機番号から、南流山駅の扱いだったと思われます。

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(参考) 国鉄 南流山駅 昭和48年(1973年)4月現在

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(4) 国鉄 馬橋駅 昭和56年 (1981年) 4月現在

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(5)近年の馬橋駅近辺の状況 (2020年(令和2年)11月23日追加)

 f54560zgさんのブログである「懐かしい駅の風景〜線路配線図とともに」の記事

2020年11月15日 (日) 常磐線 松戸〜北小金配線図 1991/2

において、馬橋駅の1991年2月における貴重な線路図が紹介されています。f54560zgさんと資料提供のNZさんには感謝申し上げます。ありがとうございます。

 そこでちゃっかり便乗企画として(汗)、近年の馬橋の状況を私の撮った写真とともに紹介したいと思います。 

 国鉄時代との比較においては、貨物設備が廃止され、その跡地に、公団住宅が建っているのはご存じの通りです。

 JR東日本から1989年9月20日に発売されたVHSビデオ「列車通り 作品番号7 ボンネット・常磐線 上野→水戸 特急ひたち号」のリメイク版であるDVD「列車通りClassics 特急ひたち号 常磐線 上野→水戸 撮影日:1989年5月29日」をみますと、上野駅10:30分発のひたち号の運転室から眺めた馬橋駅近辺の当時の状況をみることができます。

 運転士の方の信号喚呼の音声とともに、その映像を鑑賞しますと、1989年5月29日の状況としては、馬橋の貨物設備の線路はすべて剥がされ、整理されてしまっており、広大な空地の中に、ぽつりと貨物ホームだけが残されている状況で、それをDVD画面から横目で垣間見ることができます。

 1989年5月29日現在の線路配置的には、6番線が存在する点を除いては、91年の図面と同じなのではと思います。

 91年の図面において快速線の6番線が描かれていないのは、図面作成上のミスによるものなのか、貨物駅跡地の整備の関係で、1991年当時は、6番線が一時使用停止中で一時的に撤去され、実際に存在しなかったのかは、よくわかりません。

 91年の図面との比較において、現在(2020年11月)の線路配置は、

ア、快速線の6番線が存在(復活?)。

イ、日暮里方の「南部引上線」は、線路は残っているが、本線とは接続していない。91年の図面にある入換標識11Lより岩沼方の部分は、保線基地として整備されている。

ウ、3番線と4番線との間、岩沼方にあった両渡り線が撤去され、武蔵野線(馬橋支線)→3番線への片渡り線のみになった。

エ、6番線から延びる形で、流鉄線への連絡線は残っているが、関連する入換標識2基の前面には使用停止を示す白色の木片が×印に取り付けられ、連絡線上の2か所に木製の車止めが置かれている。このような状態になってから、すでに5年以上経過しているように思われるが、鉄道雑誌などを読むと、JR線と流鉄線間の車両の授受は行われているようなので、連絡線が廃止されているわけではないようである。

となっております。

 昭和56年の図面を流用して、JRと流鉄の連絡線の状況を示すと以下の図のようになります。JR6番線と流鉄1番線から延びてきた線路が、片渡り線1組で、接続しています。

(6)JR・流鉄連絡線の状況 1 (2020年(令和2年)11月23日追加)

 まずは、件の渡り線の写真から、線路は、写真一番右側の線路が流鉄線から日暮里方向(写真奥へ)延びる線路で、その隣の線路が、JR6番線から岩沼方(写真手前へ)延び北部引上線へと至る線路です。

 みにくいですが、車両停止標識の先の草が伸びてきてしまっている先に、木製の車止めが置かれています。

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 以前、常磐緩行線のホームに立って、この渡り線を横から撮ろうとした写真です。収まっていませんが・・・。右端に件の車止めが、そして、左端に双動の片渡り線の転換装置が写っています。

(写真はクリックすると拡大します)

 転換装置を撮ってみました。そして、渡り線のもう一方の端です。

(写真はクリックすると拡大します)

  

 今度は、常磐緩行線のホーム側から車両停止標のあたりを撮影してみます。

(写真はクリックすると拡大します)

 以前に撮った写真です。木製の車止めが見えます。

(写真はクリックすると拡大します)

 常磐緩行線のホームから、流鉄線ホームの方を臨みます。流鉄1番線手前の車両入換標識と北部引上線の車止めが見えます。

 今度は、跨線橋上、横から撮ってみました。写真の右側が日暮里方、左側が岩沼方で、一番手前の線路が、流鉄1番線へ(左方向)の線路、次の線路が、北部引上線の末端部です。

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(7)JR・流鉄連絡線の状況 2 (2020年(令和2年)11月23日追加)

 もう一基の木製車止めを撮影してみました。緩行線のホームから日暮里よりを撮影しました。非常に分かり難くて恐縮なのですが、写真右端に×形の白木が付けられた入換標識があり、その少し先に車止めが置かれています。6番線の出発信号機の背面がその奥に見えます。

 また、もう一基の入換標識は、6番線の出発信号機の信号柱の下部にその背面がみえます。その入換標識も×形の白木が付けられています。

(写真はクリックすると拡大します)

 別の日に撮影した写真です。撮影の計画性がないことがバレバレでお恥ずかしいです(汗)。

(写真はクリックすると拡大します)

(オマケ)惜別!!馬橋のワムハチ 

 ツイッター上の情報で知ったのですが、馬橋の鉄道用品株式会社にあったワムハチがついに解体されてしまったようです。

 2020年(令和2年)4月12日に仕事上必要な用具の購入にジョーシン松戸店へ行く途中、たまたま馬橋で撮影した写真です。

(写真はクリックすると拡大します)

 ところが・・・、ツイッターでの情報をもとに、10月に馬橋に寄ってみると、貨車がいなくなっていました。

 そこで、上の写真の駅ビルの2階から、眺めてみますと・・・。解体中?それとも、貨車内部の掃除中??

 やはりツイッター上の情報をもとに、11月になって再訪してみると、貨車はなく、貨車がのせられていた線路も撤去済みでした。やはり解体されていたのですね。合掌。

 

 (写真右側の方の)車両停止標識はまだ残っていますね。

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